板橋区議会議員 坂本あずまお あずまお日記

‘またたび日記’ カテゴリーのアーカイブ

またたび日記より 地震について

2011 年 3 月 15 日 火曜日

[先週3月11日、東北地方を中心とした東日本一体で大地震が発生し、多くの方が被災されました。またこの文章を書いている今も、福島原発での爆発とそれに伴う放射能漏れ事故が発生しています。現場で命を張った懸命の作業をされている方々の強い勇気と意志に深い感謝と敬意をしつつ、13年前に私がイスタンブルで被災した際の想いを記した、またたび日記の一部を転載致します。]

地震

イスタンブルにひとり居を構えて二年。大学にもようやく慣れて、トルコ生活の右と左がようやく区別つき出した頃にトルコ北西部で大地震がおこった。1999年8月17日午前3時頃、イスタンブルから東へ100キロほどのイズミットという街を震源として、M7.4の大揺れがきた。

この時期、大学の夏期講座の最中で、この夜私は次の日の授業へ備えて早々に床についていた。ベッドの中で揺れを感じた時には寝ぼけていたので、布団からは出ずに足元のタンスが自分の上に倒れてこないかチラッと見て、部屋の中でもお皿が割れたり物が落ちた音もしてないし、まぁいいか。と、また眠りについた。それから数分たって、

「でもいや待てよ、ここどこだ?トルコだ。地震か?大きいな。震度も5弱くらいだったな。トルコの建物ぼろいよな、いつも崩れやしないか心配してたよな。あれーー」

と、アパートの上の部屋からも物音がバタバタ立ちだし、ようやくなんとなく事の重大さに気づきだした。そして窓を開け外を見ると、混乱して外へ飛び出した人々と自動車による大渋滞。停電でヘッドライトの明かりのみの真夜中に怒声とクラクションが鳴り響く。地震体験のほとんどない彼らは、みなパニックになって街から逃げ出そうとしたのだ。しかしどこへ逃げるというのだろう。普段から避難経路も考えていないし、避難場所もない。そもそも大地震が起こって自動車に家財道具積んで逃げ出して、そしたらいたるところで大渋滞だなんて、日本人にとったら常識知らずも甚だしい、自殺行為だ。

とりあえず揺れの大きさに耐えたこのアパートと周りの建物を確認した。停電、外は大混乱、ニュースで伝わる前にできたら日本に連絡を入れておくかと受話器を上げたら、まだこの時点で電話回線は生きていた。地震があったことと、無事だからテレビで一報が入っても心配しないようにとだけ実家には伝えておいた。停電だけれど私のマックはノート型。ひと通りネットでニュースを確認すると、直後の情報では震源地近くの軍隊宿舎が倒壊とだけ流れていた。そうなると被害はもっと大きいはずだと大体想像がついたので、やはりここは日本人。水の確保、扉を開ける、靴を履く、防寒着、懐中電灯、と防災グッズ一式準備し、様子を伺いにアパートの4階にある部屋から外へ下りてみた。するとそこにいたのは、一人で右往左往している隣の部屋のお父さん。若い人にはドラクエで街中を歩いている人の動き、と言えば分かってもらえるだろうか。まさに一体何をどうすればいいのかわからずに途方に暮れていた。とりあえず今は車で逃げずに、避難道具を揃えて余震に注意が大切と助言
をしておいた。

これだけ冷静に地震に対処できる日本人と、パニックを引き起こすトルコ人との違いは何か。それは数多くの地震経験と防災教育の大きさに他ならないと思う。地震だけでなくどんな大災害に対しても、対応の知識と心構えをどれだけ日ごろから備えているか。これがいかに大事なことだったのかと身をもって感じた。それにトルコ人の持つ地震への恐怖心の根幹には、街中の住宅建造物に対する耐震強度への不安もあるだろう。ほとんどの建物の骨格は雑な鉄筋?のコンクリート、壁は軽いブロックを積み上げ漆喰で固めただけの作りであったと思う。建設中に見たら「この中には住みたくないな」と日本人なら誰もが感じるはずだし、よくこれであの地震に耐えたなと逆に感心したくなる。

ならば政治や社会にできる備えはなんなのか。防災対策、対応の知識を広めるなど、おのずと答えは出てくるだろう。逆にどんなに備えや対策を講じてきたって、いざという時の国民の心と行動までを政府が掌握できるほど、政治はたやすいものだろうか。

当時の国家元首、エジェビト首相はこの地震に際し、

「おお神よ。あなたは如何ほどの試練をトルコに与えるのか」

と語った。ときに同情的に、或いは首相は無責任だとメディアは報じたが、社会と政治と人の力が遠く及ばぬ程に、自然の力は強い。社会にも出来ることと出来ないことがある。この地震による死者は、1万5421人。行方不明者はその数倍に上ると言われている。

テロ、死ぬということ

2010 年 11 月 28 日 日曜日

生きる感触のそばで、イスタンブルでは人の死が東京よりもはるか身近に存在していた。

たまに日本のニュースでもトルコでのテロのことは取り上げていたようだ。観光地での爆発物やPKK、チェチェン関連のテロなどでよく日本から心配の電話をうけた。けれど、おそらくは実際の1/3か1/4くらいの数しか報道されていなかったように思う。
別にトルコが特に危険だったということじゃない、ただ身近だったということ。またたび1号にも書いたのだが、テロにもいろいろと起こす人間の主義主張があらわれる。音爆弾といって、大きな音だけを響かせる爆弾で誰も傷つけることはなかったり、ホテルを占領しても人質にチェチェン行進曲を大爆音で聞かせるのみだったということもあった。味方をする訳ではないが、テロを起こす人間の心情は、「国中、世界中に我々の苦しみと現状を知ってほしい、そのために騒ぎを起こす」というのが主で、そうそう民間人を巻き添えにするようなことは起こらなかった。

それでも、残念ながら年に幾度かは警察への自爆テロやビルの爆破などで人の命を奪うテロ行為が起こった。ある日、学校に通うバスで毎日横を通っていたビルは、夜中の爆破で次の日、骨組みだけ残した真っ黒な姿に。また警察の詰め所への自爆テロで数名が亡くなった事件の時はその音も振動も感じてる。一番強烈だったのは、大学のそばにあった外国人向けのおしゃれなカフェが、お茶をした3日後に爆破され3人が死亡。
一般のトルコ社会では凶悪犯罪などは少なく、痴情のもつれや親族同士のトラブルで発砲事件があるくらいで、確かにひったくりや強盗はあるけれどマンチェスターよりよっぽど身の危険は少ない。それでも、一瞬ですべてを吹き飛ばすボンバーは、自分がいつどこで巻き添えを喰ってもおかしくない状況であったし、命の危険に対する本能的な察知感覚を磨いておくことが必要だった。
当時は両親を心配させなくなかったので言えなかったが、当時はいつどこにいても、例えば町中でなにげなくバスに乗っているときも歩いている時も、あぁここでもし死んだらという覚悟と、それでも私は客死しないんだという感覚と、相反する両方は常に心のどこかに持っていた。

私がトルコを出たあとにアルカイーダのテロが活発となり、かなり悲惨な爆破がイスタンブルでも続いたようだ。暴力と、警察力と、軍事力と。いろいろと思うところあるが、また別の機会に記したいと思う。

続く

この頃の生活は楽しかった。

2010 年 11 月 28 日 日曜日

この頃の生活は楽しかった。

世の中のことも、怖さも、何も知らずに18歳で一人トルコに移り住んだ。本当に多くの人に助けてもらったし、いろいろ迷惑をかけた。当然一人で生きるのは辛くて苦しくてたくさん迷って、気づけば体重も15キロ以上減っていた。けれど、いつの日か「おれにそんな苦労があったかね?」と言えるようになるからと。そう祖父に言われたことを頼りに生きていた。

現地では知り合いを頼ってなんとか部屋を探しだし一人暮らし。料理は自炊、つくるのは好きだったけれど、18歳の男が朝昼晩自分のためだけにつくる飯はたかが知れてる。また大学生活は、中学高校時代に英語の成績が赤点ばかりだったこともあり、英語の授業についていくのだけで一苦労。むしろ文法、語順や言語感覚が似ているトルコ語の方があっという間に日常会話が身に付き、教室で英語を喋るたびに日本人トルコ人のお互いの発音の下手さを笑いあっていた。

家ではずっと自分だけの時間が続いた。そんなに社交的でもなかったし、今ほどのネットワーク環境もなかったし、ただただ自問自答、物事を思い詰め考え抜いていた。この時期に苦しみ抜いて感じた考え方や生き方はいまだに自分自身を支えているし、生きる基礎となっている。こんなに自分自身と向き合い葛藤できる時間って、人生の中でもそうはないんじゃないかな。貴重な経験。

議員をやっていれば、思想の違う人ともたくさん会うし、意見の違う人と議論をして同意をしなければいけないことがある。トルコ人っていう、宗教も生まれ育った環境も金銭感覚も何もかもが違う人たち、言葉だって全部うまく伝わるわけじゃない。この人たちと共に生きていくには、世の中渡り合っていくには、どうすればいいのか。ただぶつかり合って相手をやっつければ済むなんてことはなく、組しがたい右と左を結びつけなきゃならない。初めて会った異形の人と繋がらなければならない。向こうからしたら、私が異形。一人の人間と剥き出しの感情で向き合い、刹那に心を合わす。それでも頑として通さねばならぬところは是が非でこちらの理を通す。当時は頭で考えながらやっていたわけでもなく、斬るか斬られるか真剣勝負そのものだったし、ましてや現在の職業に活かせるなんて思いだにしなかった。

こんな喜怒哀楽、喜びも怒りも悲しみも苦しみも、すべてのことが人生の糧になって吸収されていく。いくつになっても大切なことではあるけれど、そんな「生きる」ことが新鮮で、あぁこの時代楽しかったと、今なら振り返ることができる。

続く

アララト山へ

2010 年 10 月 31 日 日曜日

アララト山とは旧約聖書にある、44日の長雨によって大洪水がおこりノアの家族と動物のつがいを乗せた方舟が漂着したという、そのお山である。トルコ語名はアール・ダー。大小2山の連山で、標高は大アララト山5137メートルと小アララト山3896メートル、富士山に似た重厚壮麗な姿をしている。ここはイランとの国境から16キロ程の、クルド人が多く住む地域。当時この地域はまだクルド人独立運動PKKの活動が盛んな頃でトルコ軍との衝突が頻発しており、軍の誘導や許可がないと立ち入りが難しい地域であった。

まだトルコに留学していた2000年、このアララト山に訪れる機会があった。日本のテレビ局NHKがBS放送でトルコからの2元中継による生放送をする話があり、私の友Aさんがトルコ東部の担当レポーターとなった。イスタンブルならまだしも、トルコ東部くんだりまで日本人クルーが来て撮影するとなると、それなりに小間使いの人手が必要である。ということで、急きょ私に声がかかった。当時の私はまだ二十歳前後で、大学の授業もあるようなないような、という状況である。大して仕事の役に立つ見込みはなかったのだが、この旧友が気を利かせて、なかなか行く機会のないアララト山へお誘いをしてくれたのだと思う。

続く

はじめに

2010 年 10 月 24 日 日曜日

本日、1泊4日でトルコに出かけた。まったくの強行軍である。前回またたび日記を書き上げて次回へ続くと締めくくってから、すでに4年が経過してしまった。この旅で改めて「旅」というものは如何なるものかと考えるに及び、今あらためて筆を執った次第である。

前々から、またたびの続きはアララト山に旅行したことを書こうと決めていた。けれど、トルコにいた頃のあれも書きたい、これも書きたいと、いろいろ欲を出していたら余計に何も出来ず書けずで、「またたび次号は?」と聞かれる度に、あぁこれは完成しないだろうなぁと、他人事のように遅筆ならぬ絶筆の感触でいた。

考えてみたら、またたび日記は旅日記である。生活のことでなく旅したことを、旅の中で足のおもむくままに歩いたように、文もあちらこちらへ行って構わないんだと気づいたら気が楽になった。随分と昔のことだけれど思い出しつつ、いや思い出すためにこの旅日記の続きを書いてみようかと思っている。

10年前の話の記憶である。多少事実と違ったり、記憶が定かでない部分もあるかも知れないが、それもまたこのまたたび日記の特徴だと思っていただければ幸いである。

2010年6月 トルコからの帰り 経由地のドバイにて